藤井将雄 投手【画像】工藤監督にホークス復帰を決めさせた伝説の選手

福岡ソフトバンクホークスでは、今季より工藤新体制がスタートしますが、実はその大きなきっかけとなった選手が存在します。

藤井将雄 投手

その選手の名は、藤井将雄 投手。
唐津商業高校から日産自動車九州を経て、1994年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークス(当時)に入団しました。
1年目途中から先発を任されましたが伸び悩み、3年目から中継ぎに転向。その後は「炎の中継ぎ」と称され、右の中継ぎエースとして活躍しました。
1999年には、パシフィック・リーグ最多ホールド記録(当時)を樹立し、ダイエーのリーグ優勝の原動力となり、入団当初の目標であった「王貞治監督を胴上げする」を達成しています。
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(藤井将雄 投手・現役時代の画像)

末期肺がん、余命3ヶ月

しかし、その年の夏頃からマウンド上で咳き込む様子が見られ、日本シリーズ前の身体検査で異常が見つかり、シリーズ後に入院しました。
医師の宣告は「末期肺がん、余命3ヶ月」。
「マウンドに上がるという気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれない」という家族の懇願があり、本人には間質性肺炎と偽った病名が伝えられました。
中内オーナー代行、王監督などは真の病名を知っており、本来は解雇となってもおかしくありませんでしたが、藤井投手が優勝に貢献したことなどを踏まえ、年俸倍増で契約更改しました。

最後のマウンド

次のシーズンは入退院を繰り返しながらも、2軍戦6試合に登板しました。
しかし、体力的に最後のマウンドと言われる日が訪れると、王監督は藤井投手に「今すぐ1軍に上がって来い」と電話をかけます。
そのとき藤井投手は、「2軍で結果を出せていないのに、1軍に上がることなど出来ない」と固辞し、最後まで1軍で登板することはありませんでした。
再入院した後もウェブサイトに日記を掲載し、ナインに叱咤激励を続けましたが、チームがV2を達成したのを見届けた直後、31歳という若さでこの世を去りました。

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藤井投手と工藤監督

出棺の際、親友の若田部投手や後に監督となる秋山選手らとともに棺を担いだのが、藤井投手の兄貴分であった工藤公康投手です。
工藤投手は、この年巨人に移籍していますが、後に「彼が病気だと知っていたら、巨人には行かなかったかもしれない」と話しています。
2009年、工藤投手が西武に移籍した時は背番号55を選びましたが、「彼(藤井)の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けて行こうと心に決めていた」と語りました。
ソフトバンクホークスの監督が決定した際には佐賀県唐津市を訪問し、弟分の墓前に手を合わせています。

工藤監督ホークス復帰のきっかけ

工藤氏がホークス監督への就任を決断したのは、王貞治 会長より「やってほしい」と直接電話を受けた事でした。
それは紛れもなく真実だと思いますが、それだけではなく、故・藤井投手の記憶が工藤氏を福岡へ呼び寄せたことは間違いありません。
今季、ソフトバンクホークスは、ますます強くなりそうです。
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