2年ぶりの日本人ノーベル賞が決まったね。
ノーベル医学・生理学賞に輝いた、本庶佑(ほんじょ・たすく)先生だ。
今回は、本庶先生の経歴をまとめていくよ。
◆子供時代
本庶佑先生は、京都市の生まれだ。
やはり医師をされていたお父上が、山口大学医学部の教授に就任したため、一家は山口県宇部市に移り、小学校から高校までを過ごしている。
小学校は、宇部市立神原小学校だ。
小学校時代の本庶先生は、机の引き出しにカエルを忍ばせたり、教室の扉に黒板消しを挟んだりしていたらしい。
イメージと異なり、結構、いたずらっ子だったんだね。
ただ、授業中、上の空のように見えても、先生からの質問にはすらすらと回答し、周囲からは「天才肌」と一目置かれていたという。
理科の先生が天体望遠鏡で土星のリングを見せてくれたのに感動し、小学校の卒業文集には
“将来は天文学者になりたい”
と書いている。
◆中学・高校時代
中学校はそのまま、宇部市立神原中学校に進学。
中学に入ると模擬試験の順位が上がるのが面白くて、2年生の時に3年生の全国模擬試験を受け、県で10番以内に入ったのだとか。
高校は県下有数の進学校である山口県立宇部高校だ。
本庶先生と中学・高校が一緒だったという人は、
“独特のオーラがあった。地方の田舎にあって、常に外へ目を向けていた”
と振り返っている。
話しぶりが堂々としているので「先生みたいな生徒」と言われていたそうだ。
ここで意外な人も中学・高校が共通している。
元総理大臣の管直人氏だ。
管氏は山口県宇部市の生まれで、神原中学校・宇部高校の卒業生。
本庶先生よりは5学年下になるが、4歳上のお姉さんが本庶先生と一緒に演劇をしたことがあり、本庶先生が自宅に来たこともあったらしい。
ちなみに、ユニクロの柳井正会長も宇部高校の出身。
地方の高校にしては、有名人率がハンパじゃないね。
◆そして京都大学へ
大学への進路は、それなりに悩んでいたという本庶佑青年。
①英語が得意だから外交官、②弁護士にも興味がある、③父の影響で医者、の三択だった。
結局、伝記を読むのが好きだったため、野口英世に惹かれ、京都大学の医学部を選んだ。
普通は逆立ちしても合格が難しい大学なんだけどね(^_^;)
大学時代は『京都大学交響楽団(京大オケ)』に所属。
本庶さんはフルートだったけど、
“同期に20人ぐらいフルート奏者がいたが、彼(本庶さん)は20人中20番目ぐらいに下手だった”
と同級生が証言している(^_^;)
しかし、抜群の統率力を見込まれ、本来なら演奏が上手な楽団員が就く幹事(マネジャー)に抜擢されていた。
抜群の統率力は学生運動でも発揮され、本庶先生は他の同級生を率いて医師国家試験をボイコット。
結局、半年後には試験をパスしているけど、本庶先生の意外な一面だ。
◆博士→教授→名誉教授へ
大学卒業後、本庶佑先生はアメリカの研究機関でも活動し、帰国後は東大の助手を務めた。
1975年に京都大学より医学博士号を取得。
1979年に大阪大学医学部の教授に就任したが、当時37歳で国立大医学部教授は珍しく、マスコミでも騒がれている。
1982年より京都大学医学部の教授も併任し、1984年からは京都大学医学部教授が本職。
1989年から1998年にかけては弘前大学医学部の教授も併任。
教授って掛け持ちが出来るんだね。
その後の年表は以下のとおり。
- 1995年…京都大学大学院の医学研究科教授
- 2005年…京都大学大学院の医学研究科にて特任教授
- 2006年…京都大学大学院の医学研究科の客員教授
- 2005年…京都大学の名誉教授
- 2017年…京都大学の高等研究院にて特別教授
教授の種類にも色々あるんだね。
◆まとめ
という訳で今回は、本庶佑先生の経歴をまとめてきた。
輝かしい経歴の背景にあるのは、物事に対する一貫した情熱だろう。
優秀な人が情熱をもって長い年月を研究に費やせば、ノーベル賞級の発明が生まれるってことだよね(^_-)
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